私の生まれ故郷である鹿児島県には、かつて特攻で使われたベニヤ板製のモーターボート「震洋」の発進基地が20近くありました。指宿市の知林ヶ島の近くの海岸線にあった基地もそのうちの一つです。下の写真は以前そこを訪れた時のものです。観光ガイドにも掲載されず、しかも干潮時にしかその痕跡を見ることはできません。貴重な戦跡といえるのでしょうが、知ろうとしない限り、その姿を目にすることはできないのです。
指宿には飛行機の特攻基地もありました。「下駄ばき水上機」と呼ばれ、翼の下にフロートをもち、海面から発着できる飛行機が係留されていました。偵察を主な目的としていたために速度が遅く、特攻にはまったく不向きな飛行機でしたが、それに爆弾を積んで出撃し帰らなかった隊員が82名もいたそうです。それらの特攻に使われた飛行機の一つが「零式水上偵察機」です。雑餉隈(現在の南福岡)にある九州飛行機で数多く生産されていました。そこでは、当時の福岡女学校の卒業生たちも勤労動員させられていたようです(『春日市史 中巻』より)。
戦後80年となる今年は、さまざまな戦争の「記憶」がメディアによって報道されるでしょう。創立140年の節目となる福岡女学院にも、戦火を生きた先人の歴史がありました。まずは、身近な女学院の「記憶」から平和について考えてみるのもよいのではないでしょうか。
これからも機会があれば、こうした「小さな物語」を学科ブログで取り上げていくつもりです。みなさん、今年もよろしくお願いします。
(学科長 池田理知子)