福岡女学院のあゆみ
- 明治
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- 1885 創立
- 1888 天神町に新校舎落成(天神2丁目)
- 1912 福岡英和女学校と改称
- 大正
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- 1915 最初の葡萄の校章制定
- 1916 メイクイーンを迎えたメイポールダンス開始
- 1917 私立福岡女学校と改称
- 1919 薬院新校舎落成・移転(現浄水通り)
- 1921 セーラー服を制服に制定
- 昭和
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- 1937 へレン・ケラー女史が来校
- 1941 現在の校章設定
- 1945 空襲により校舎焼失
- 1948 新制高等学校設置、財団法人福岡女学院と改称
- 1955 幼稚園開設とスクールバスの運行
- 1960 曰佐新校舎落成・移転
- 1963 高等学校音楽科開設
- 1964 短期大学を開設
- 1985 創立100周年
- 平成
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- 1990 大学人文学部開設、生涯学習センター開設
- 1999 大学人間関係学部開設
- 2002 曰佐キャンパスに全学統合、天神サテライト開設
- 2003 大学院人文科学研究科開設
- 2005 創立120周年
- 2008 古賀市に看護大学開設
- 2010創立125周年 Mission Festa in天神開催
- 2014短期大学部開設 50周年
大学国際キャリア学部開設 - 2015創立130周年 大学院発達教育学専攻開設
福岡女学院の歴史
建学の精神、それは3人の女性信徒の決意から始まる
1869(明治2)年、米国マサチューセッツ州南ボストンのメソジスト監督教会宣教師館に集まった3人の女性信徒が、印度伝導の報告を聞き「未だキリスト教を知らぬ諸国の婦人に福音を伝える」「それは教育と福音奉仕活動によって行う」とする婦人外国伝道協会の設立を決意しました。
そして印度から始まった伝道活動は、中国、日本、朝鮮、東南アジアと広大な地域に広がり、のちにブルガリア、イタリア、メキシコ、南米を経て函館、弘前、仙台、米沢、東京、横浜、名古屋、福岡、長崎、熊本、鹿児島と日本各地にも展開されます。
1885年創立 福岡女学院を知る5つのキーワード
創立者 ジェニー・ギール女史
師範学校で学び、当時ペンシルベニアで教師をしていたジェニー・ギールは、海外伝道の話に召命を感じ、ニューヨーク支部の派遣員として1879年(明治12)年、長崎に来日します。
地元有志の要請により福岡に来たギール女史は、まだ都市の面影もなく家屋もまばらだった因幡町(現在の天神2丁目)に仮校舎を設け、「日本の少女達が新しい生き方を見つける学校を」という理想を掲げ教育活動を開始します。
ほどなくその理想は福岡女学院の前身となる英和女学校の設立により結実します。突如天神の街に現れた白亜の洋館は福博の人々を驚かせ、その洋館を校舎として、西洋式の先進的な女子教育が福岡でも開始されることとなります。
それ以来、福岡女学院は一貫して女子教育を堅持し、「神を畏れ奉仕に生きる、良き社会人としての女性の育成」を目標に、国内外で活躍する数多くの卒業生を輩出してきました。
女子教育の革新者エリザベス・リー校長
現在も日本のあちこちで制服として見かけるセーラー服。実はこれも1921(大10)年に福岡英和女学校(現福岡女学院)が採用したデザインが全国に広まったものです。今も色あせない究極のデザイン、その製作過程には時代の要請や現場のニーズに即した関係者の粘り強い試行錯誤がありました。
1915(大4)年、第9代校長に就任したエリザベス・リーは、言葉の壁からスポーツを通して生徒たちとコミュニケーションを図ろうと考えました。ところが当時は女学生といえば着物に袴、履物は足袋に下駄が一般的な時代、とうてい激しい運動をできる姿ではありません。困ったリー校長は自身愛用のセーラー服をもとに新しい制服を作ろうと決意します。
ここから究極の制服作りへの試行錯誤が始まります。プロジェクトはまず素材の確保から始まり、今では当たり前のダークブルーの生地も当時は日本になく英国から取り寄せ、靴下はロサンゼルスから輸入しました。当時日本には靴を履く習慣がなく、靴下もなかったのです。履物にいたってはリー校長の靴を参考にオーダーメイドで靴を作成しました。
一人ひとり採寸するオーダーメイド方式で最初のセーラー服が40着完成します。その頃には季節もかわり、引き続いて夏服の製作が行われ、夏服の生地は朝鮮から輸入しました。また生徒の要望で、リー校長のセーラー・ハットを見本に、麦わら製の制帽もオリジナルで製作しました。その後さらに8回の手直しが行われ、1921(大10)年12月ついに学院の制服として究極のセーラー服が発表されました。
大正デモクラシーというハイカラを好む時代背景もあり"斬新な制服"セーラー服誕生の噂は全国に広がり、まず北海道から問い合わせが入りました。こうして当学院が試行錯誤の末に完成させたセーラー服が、当時の思いもそのままに、現在に至るまでほぼ変わらぬ姿のまま全国で制服として採用されています。
復興する日本の歴史を見守り女性達を励ましてきました
1945(昭20)年6月19日、福岡大空襲により当時浄水通りにあった学院の校舎はほぼ全焼しました。
ミッション・スクールの運営がもっとも困難であった軍国主義の時代。その時代に学院の運営を担った初の日本人院長徳永ヨシは、大空襲の翌日6月20日、焼け野原となった校庭に立ちつくしました。
あたりを見回すと、2人、3人と登校してきた生徒達が、焼け野原となった校庭をみて泣いています。泣くのは止めなさいと諭す徳永院長に、ある生徒が言いました。『先生、でもチャペルまでやけてしまいました』。『なあに、これからやるのですよ』と強気に言い放った院長、その目にも涙が…
しかしその五日後には焼け野原となった校庭に生徒を集め青空礼拝を開きます。炎天下の校庭で、再び院長が言い放った『これからやるのですよ』という呼びかけに、生徒達は勇気を与えられ励まされ、聖書も賛美歌もないなか暗記した賛美歌をみんなで歌いました。
そんな院長も8月15日の敗戦の知らせには「これから日本はどうなるのか」と途方に暮れます。それでも8月17日の未明に「やろう、やりましょう」と思わず叫び、立ち上がりました。
「玉砕を覚悟していた私は指一本も失わなかった。残りの生涯を、心の限り、力の限り、学校の復興のために尽くそう、神に喜んでいただけるように…」「復興は覚悟している以上に困難を体験する。しかし日本はここから立ち上がって行かねばならない」という強い決意がみなぎったと言います。