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2023.03.07

メディア・コミュニケーション学科

授業紹介:川棚町の戦争遺跡を訪ねるフィールドワーク(「国内スタディ・ツアー」③)

メディア・コミュニケーション学科では集中講義「国内スタディ・ツアー」を2月の第2週と3週に行いました。

1回目2回目の記事も是非ご覧ください

3回目のフィールドワークでは、長崎県佐世保市の東に隣接する「川棚町」を訪ねました。今回は、川棚町戦時遺構ガイドの古川恵美さんの案内で、この町に残された戦争の遺跡をたどる旅です。

目の前に広がる海がきれいな大村湾に面した川棚町になぜ戦争遺跡が残されているのか、最初に古川さんよりレクチャーをしていただきました。

軍港として栄えた佐世保では造船以外に魚雷の製造・性能試験が行われていましたが、佐世保湾は狭く入り組んでいるなどの理由で、移転先が検討されます。佐世保からほど近く、波が穏やかな大村湾を有する川棚町に白羽の矢が立ち、1918年に魚雷発射試験場が建設されました。

現在も残っている魚雷発射場及び上屋(左)   空気圧縮 喞筒 ポンプ跡(右)

1943年には佐世保海軍工廠の分工場として川棚町の海沿いに「川棚海軍工廠」が作られますが、空襲の激化により、工場は山あいへと疎開します。

疎開トンネル工場跡

山の斜面に掘られたトンネル工場では動員学徒と挺身隊の女性たちが二交代制で昼夜を問わず働いていました。親元を離れてひもじい思いをしながら過酷な労働を強いられていた女性たちの証言なども残されています。

1944年に開設された「川棚臨時魚雷艇訓練所」では特攻兵器「震洋」や「伏龍」などの訓練が行われていました。ベニヤ板でできた簡素な船に爆弾を積み敵艦に体当たり攻撃をしかける「震洋」、潜水具を着用し海底に待機した兵士たちが先端に機雷をつけた棒で敵の船底を突いて爆発させる「伏龍」。敗戦が色濃くなり、まともな戦法では立ち行かないと考え出された無謀な作戦でした。

震洋艇などの揚げ降ろしに利用されていたクレーンの基礎台が海に残っている

現地に立つことで、 多くの命が「兵器」として扱われた時代があったことが実感として伝わってきました。学生たちは戦争遺跡を残すことの意味、そこから学ぶことの意義について思いを巡らせていたようです。

「水上特攻艇『震洋』展示館」(左)  当時の軍服や戦死者の記録、「伏龍」の鉛の潜水靴などが展示されている「特攻殉国の碑資料館」(右)

フィールドワークを終えた学生のコメントを紹介します。

「震洋」の模型の素材や中の狭さや作りを間近で触れてみて、事前学習の際に見た映像で当時「震洋」を初めて見た人が「がっかりした」と言っていた意味がわかった気がします。これで特攻をしろと言われても不安でしかないと感じました。また「伏龍」の靴底を持ってみて、どれほど人命無視をしているのかがその重さで伝わりました。(M・Aさん)

川棚町の戦跡を巡りながら当時のものがどんどんなくなってきてしまっているのだなということを感じました。今回の授業を通して、資料や話だけでは伝わらないものが、現地に立ってみると強く感じられるということを学びました。少しでも多くの戦跡が保存され、時間が経ってもそこから人々の関心が離れないようにするべきであると思います。(M・Rさん)

古川さん、本当にありがとうございました。

(学科Today編集担当)