国際キャリア学部では期末の集中講義として、International Fieldwork llと称するプログラムを開講しており、学部に所属する国際英語学科と国際キャリア学科の学生が選択履修しています。今年は、8月9日(水)から8月15日(火)にかけての6泊7日の行程で、ベトナム中部に位置する世界文化遺産の街、ホイアンを16名の学生が学術研修の目的で訪れました。このブログでは、まず昼の顔としてのホイアンでのフィールドワークをご紹介します。引き続いて、夜の街そして食の街としてのホイアンでの行程を、後日ご紹介致します。
■ホイアンの地理的位置
ホイアン(Thành phố Hội An)は、べトナム中部のクアンナム省(tỉnh Quảng Nam)内に位置し、ベトナム第3の都市であるダナン市(Thành Phố Đà Nẵng)に隣接しています。福岡からは直行便が出ておりませんので、ホーチミン(Thành phố Hồ Chí Minh)もしくはハノイ(Thành phố Hà Nội)を経由することになります。
■日本とはゆかりの深い歴史の街ホイアン
ホイアンは、現在のベトナムの中部沿海地方に存在したチャンパという王国が作った港町が、その前身です。16世紀ごろになると現在のベトナムの中部都市であるフエ(tỉnh Thừa Thiên-Huế)に広南国と呼ばれる王国が成立しました。フエの王は、ポルトガルと貿易をするためにこの港町が選ばれ、ホイアンという名前が与えられました。 最初はポルトガルとの貿易を行っていましたが、次第にフランスや中国(当時は明)、日本とも貿易による交流が広まっていきました。 また、当時の日本は中国(明)の商船と貿易をするために、ホイアンを貿易の場として選びました。
ランタンの街、ぼんぼりの街として著名な世界文化遺産ホイアンは、ベトナム戦争での爆撃を免れたため、当時の様子が現在まで残っている歴史性豊かな街です。
日本とより密な関係が保たれるようになったのは17世紀以降です。当時、ベトナム南部を支配していた阮氏から、正式な国交を求めて、書簡が送られ、これを機に、江戸幕府との取引が加速しました。江戸幕府からも朱印船が送られ、多くの日本人がホイアンに移り住んだそうです。そしてホイアンには日本人街が作られ、とても賑わっていたとされています。この朱印船貿易は約30年続きましたが、日本では鎖国が始まって以降、往来は途絶えてしまいます。
その日本がホイアンと深く関わった証が、現在も残されています。友好の証として築かれた「来遠橋(日本橋)」がそのひとつです。この橋は、日本人が建設されたとされており、石造りの基礎の上に、木造の橋が渡されており、その延長は18メートル。橋の中ほどに小さなお寺があります。
■仏教寺院の街ホイアン
ベトナムは仏教国でもあることから、ホイアンにも古い仏教寺院がいくつか点在しています。
■もうひとつの世界文化遺産(1999年に登録)、ミーソン遺跡(Thánh địa Mỹ Sơn)
ダナンから南へ約70キロ、車で約2時間の場所に位置する世界遺産ミーソン遺跡は、ホイアンからも約40kmの場所に位置する、古代チャム人になるチャンパ王国の聖地となっています。
ミーソンは紀元4世紀に、中国の影響を脱しインド文化を取り入れるようになったチャンパ王国の時の王が、ヒンドゥー教のシヴァ神を祀るために木造の祠堂を創建したのが始まりと言われています。7世紀にはレンガ造りに建て替えられ、13世紀までの900年間、王が代わるたびに祠堂が建設されました。この祠堂の建設に用いられた技術が非常にユニークで、焼成レンガを接着剤を使わずに積み上げています。アーチ状の屋根にはレンガを少しずつずらしながら迫り出すように積んでいく、疑似アーチと呼ばれる技法が用いられています。こうした建築技術からも、当時のチャンパ王国には高度に発達した文化が花開いていたことが窺えます。
■ビーチに囲まれた海の街ホイアン
ホイアンは、すぐそばに広大な太平洋(南シナ海)が広がる海の街でもあります。波穏やかで遠浅の白砂青松の海が広がっています。今回、宿泊したホテルでは道路一本隔てた砂浜が、プライベートビーチになっており、管理の行き届いた砂浜で、一日中好きな時間にビーチリゾートを堪能することができます。
今回のベトナムフィールドワークは、「ホイアン:昼の街の顔」篇としてご報告しました。この次に、ぼんぼりの街として名高い「ホイアン:夜の街・食の街の顔」篇をご紹介いたしましょう。