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    人文学部 メディア・コミュニケーション学科

    人文学部 メディア・コミュニケーション学科Today 一覧

    2013年
    03月26日

    教員コラム8 徳永至

    Column8 2013春 新学科が始まった 

    ~ ”ジイチャン先生” のツブヤキ…~ 徳永至

     

    民間放送から移ってきて8年目。去年65歳になって、役所から“前期高齢者”と呼ばれることになった徳永です。マスコミ系の科目の担当です。

    1947年(昭和22年)生まれの、いわゆる“団塊の世代”で、みなさんとは孫&祖父でもおかしくない年の差があるので、前年度受け持った表現学科1年Gクラスでは、"ジイチャン(Gチャン)"先生と呼ばれていました。

     

    メディア・コミュニケーション学科・一期生の皆さん、イラッシャイ!

    表現学科の先輩たち、新年度もよろしく!

     

    ところで、3月18日、大学近くの小学校の卒業式(正式には、卒業証書授与式)に出席しました。昔より校数が増えたからか、卒業生は2クラス67人でした。皆さんは、どんなでしたか?

    団塊の世代の私の場合、1954年(昭和29年)に小学校に入学してみたら、上級生は1クラス50人程度で1学年3~4クラスなのに、こっちは1クラス60人近くて7~8クラスもあります。教室に全員着席すると後ろに空きがほとんどなく、全校集会は、講堂をあきらめて、もっぱら校庭(当時は運動場と呼びならわした)で開かれました。1年生の暮れ、福岡県筑紫郡曰佐村が福岡市と合併し、学校が村立から市立になって紅白まんじゅうをもらったのも、寒さこたえる運動場でした。翌年春には、分校ができて半分近くいなくなり、“催しは何でも運動場”ではなくなりましたが、教室の狭さは変わりませんでした。

    戦争が終わった1945年8月15日を期して、“平和ニッポン”の再生に向かったころ、大人たちは戦時中に体力を使い果たしており、食糧不足と栄養失調にも悩んでいたはずなのに、僕たちが“平和の申し子”として大勢生まれてきました。乳児のうちに亡くなることも多かったといいますが、丈夫に産んでもらい、なんとか栄養を確保してもらったものが生きながらえ、しかも、還暦を過ぎた今日までこの人数存在するのですから、わが世代は、結構、心身ともにしぶといのだと思います。

    なんでこんなことを言い出したかというと、団塊の世代は、時間がもっとゆっくり流れていた“戦前的アナログ・ローテク時代”と、生まれてみたらカラーテレビがあって、あらゆるデジタル機器にすぐ馴染むことのできる“21世紀的デジタル・ハイテク世代”の仲を取り持つ者として、老後を過ごさねば!と思うからです。教壇に立つのだからなおさらだ…とも思っています。

    かつて私たちが就職、結婚する頃は、“核家族化の尖兵”というわけで“ニューファミリー”と持ち上げられ、戦後ニッポンの高度成長の終末期が“バブル”だとされたとたんに、“ニッポンをだめにした大バカ者たち”と酷評されました。大勢いるから、バカの含有率は他の世代と一緒でも、数では目立って多くなります。その代わり、才能豊かだったりリーダーシップが強力だったりする人物も、たくさん混じっていたはず。それなのに時々、納得のいかない扱いを受けては来ましたが、昭和30年台、僕らの小学生の頃の通学路には、田んぼや畑や豚小屋や鍛冶屋があり、普通に歩けば、子供の足でも15分ほどの道のりなのに、道草せずにはいられない“物や出来事”がいっぱいあったことを、そして、いつ今のような時代になったらしいかを、記憶が確かなうちに伝え残さねばならないと思っているのです。

    僕が小学生の頃、通学路の小川のそばの鍛冶屋は、「♪しばしも休まず槌打つ響き、飛びちる火花よ、はーしる湯玉…」という昔の小学唱歌のままで、火花が降りかかりそうなほど近寄ると、節くれ立って筋骨隆々のかじ屋のおじさんから一喝されるので、入り口付近にしゃがみこんでは、鋤や鍬が出来上がる様を飽きず見入っていました。そのそばの小川というのは田畑のための用水路で、田植えに向けて田んぼに水がはいると、黒胡麻入りトコロテンといった風情のカエルの卵があらわれ、オタマジャクシ、子ガエル、親ガエルと育っていく。ころあいに育った頃には、ため池のザリガニ釣りのかっこうの餌になり、時には、理科で実習したカエルの解剖の、あぜ道での再現に使いました…。また、自宅の集落の氏神様の境内には、数本のツバキがあり、花のあとの実の、かたい殻を割って種を収穫し、近所の椿油加工所に持ち込むと、子どもの両手のひらに山盛りで、たしか5円ほどの稼ぎになりました。

    こんな時代、福岡市の中心“天神ノ町”の岩田屋デパートの地下食品売り場では、イナゴやタニシの佃煮や、姿のまま真半分になったイノシシが、何のためらいもなく売られていました。

    いま思い出してもキラキラする時代のあと、田植え直後の田んぼに赤旗が立ち、全校朝礼で校長先生が「田んぼの赤い旗は、ホリドールやパラチオンという強い農薬をまいたしるしです。子供には特に害がありますから、そうした田んぼに、はいってはいけません。また、登下校のときは、急いで通り抜けましょう。分かりましたね!」などと呼びかける日がやってきました。そして、この頃から数年後、農家だった母の里にいた馬1頭と牛1頭が、相次いでいなくなりました。更に数年後、母の里の集落一帯は、福岡市の副都心再開発のための区画整理事業にかかることになり、母方の祖父が地域の役をしていた関係で、率先して農地を明け渡し、離農しました。再開発は、いくつかの汚職事件を生み、10年を越す時間をかけて副都心完成に至りましたが、田んぼや畑が広がり、はなたれ小僧たちが駆け回っていた頃の面影は、ほとんど残っていません。

     

    皆さんと皆さんの生まれ育ったところには、どんな思い出がありますか?

    人の食糧になる様々な者たちの生涯を知っていますか?

    TPPの問題をどう考えますか?

     

    世の中は、分からないことや知らないことに満ちていますが、教室やフィールドで一緒に思い出し、一緒に考えましょう。

    (徳永至)

    copyright© FUKUOKA JO GAKUIN UNIVERSITY ・ FUKUOKA JO GAKUIN UNIVERSITY JUNIOR COLLEGE

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